幾ら手を伸ばしても決して届かない

 遙かなる煌めきは誘うように瞬くのに

 嗚呼、本当は

 所詮は地に蔓延る人間の群れの一つに過ぎない

 そんな我が身を嘲笑っているのだろうか







高潔な月、水面の虚像









 既に夜も更けた頃合いであった。紺碧のキャンパスに散らされた銀色の星がチラチラと瞬き、穏やかな光を湛える月に彩りを添えている。人々も獣でさえも寝静まり、昼間の喧噪はまるで嘘のようだ。
 そんな静かな夜の川岸に一人の少女が現れた。動きやすくする為であろうか、膝丈程度の短さの着物を纏った彼女は素足のまま足音を立てずに柔らかな草の上を駆けて来る。
 彼女は水に入る直前で立ち止まると暫く無言で夜空を見上げていたが、不意に川の中へと進み始めた。それも束の間、直ぐに足を止めると川の中で顔を覗かせる乾いた大きな岩の上に腰掛けた。
 水の中に浸したままの白い素足が立てるパシャパシャという軽やかな音のみが辺りに響く。水面に映る月が波紋で揺れ、その形がゆらりゆらりと変えていった。
 柔らかな黒髪と白く透き通った肌が夜に溶け込み、彼女は幻想的とすらいえる空気を纏う。吐息を零すような仕草を取った後で、菫色の瞳が夜空に凛と輝く白銀の月へと向けられた。
 遙か彼方にある月は昔から少し恐ろしかった。あまりにも大きな存在に恐らく彼女は畏怖を感じたのであろう。
 だがそれと同時に好ましいと思っていた。冷たい光は時折無言の優しさを帯び、不安な少女を安心させてくれた。
 何処までもついて来るような錯覚を起こさせる月を時に恐れ、時に友とし。伴う感情は異なるが遥かな存在への憧れは疑いようの無い感情であった。
「ったく、こんな時間に何処出歩いてんだよ、テメーは!」
 何時の間にか遣って来たのだろうか。すっかり月に目を奪われていた少女は突然掛けられた声に驚き弾けたように振り返った。深い菫の瞳に映るのは静かな夜とは相容れないような紅。例えるならばその色は陽であろうか。
 だが、それまで何の色も宿していなかった少女の面に明るい笑顔が浮かぶ。
「恋次」
「散歩をすんなとは言わねーけど、せめて一言位出掛けるって言ってから行け。起きて近くに居ねぇと焦るだろ」
 心配していた。表情はそれを物語っているのだが恋次の口調は常と変わらず素っ気ない。
 パシャリ。少女が爪先で水を弾き飛ばすと再び月が揺れた。
「恋次」
「何だよ、ルキア」
「夜空の月は美しいが、水に映った月はクラゲみたいだな」
「…テメー、人に心配させておいて謝罪は無しかよ」
 ブツブツと文句を言いながらも恋次の表情は優しい。自分の為に何か特別な事をしたり、自分にばかり優しくするのは止めてほしい。ルキアは幾度か恋次に告げていたのだが、その度に恋次は意識をした上での行動では無いと困った顔で笑っていた。
 甘やかされるのは好きではない。甘い言葉に騙されて結局突き放され、裏切られた瞬間が悲しいから。戌吊のような場で育てば誰しもが至る結論であろう。そして誰も信じず心を閉ざし、生きる為にまた別の誰かを騙す。救うなんて以ての外だ。そのような生き方が当たり前な場所で出会ったにも拘わらず――否、だからこそと言うべきであろうか――何時の間にか仲間達との、そして恋次とルキアの絆は深まっていた。
 恋次の事をルキアが信じていない訳では無い。寧ろ心の底から信頼をする仲だ。其れならば甘やかされても悪い気はしない筈なのだが、どうしても彼女はそれに居心地の悪さを感じていた。――それがどのような感情に起因するのかまだ知る由も無かったのだが。
「クラゲって食えるのか?」
「知らぬ。だが一度触ってみたいと思う」
「てめぇ、莫迦だろ? クラゲに触ると痺れるらしいぞ?」
「そ、そうなのか!? ……しかしそのように痺れるものを食べれるかと問う貴様の方が莫迦ではないか?」
「そういうのを五十歩百歩って言うんだぜ。知ってるか、ルキア?」
「全く…口の減らぬ奴め」
 二人で座るには狭い岩の上に肩を並べて爪先で水面の月を時折揺らしながら言葉を交わす。他愛の無い時の流れが楽しく、そして互いの心を満たしていた。
「けどな、ルキア」
「何だ、恋次」
「俺はこんなニセモノの月じゃなくて、いつか本物の月を捕らえてやる」
 何を理由としてそのような事を恋次が言うのかルキアには分からなかった。そして長い時を経た後、実際に恋次がルキアを護る為に“月”に立ち向かう事も未だ知らなかった。ただその言葉が頼もしく、ルキアは明るく笑みを浮かべる。
「恋次」
「何だ?」
「百年早い」
 だが勿論本心は語らない。肩透かしを食らった気分の恋次が文句を言う為に身を乗り出した時には身軽な少女は既に岸へと降り立っていた。
「わざわざ迎えに来させてすまなかった」
 漸く紡がれた謝罪を聞いて恋次は擽ったそうに頬を掻き、徐に立ち上がると川の水で顔をバシャバシャと濡らす。僅かに熱を持った頬にその水は冷たく感じられた。
「……不意打ち過ぎんだよ、てめぇは」
 ぼやくように紡ぎ出された言葉は早くしろというルキアの叫び声にかき消された。あまり待たせては小さな姫君を膨れさせてしまう。
 立ち上がった恋次は再び月を見上げる。幼いながら彼には既に護るべき存在は沢山あった。
 守りたい沢山の人を本当に護りきる為にはもっと強くならなくてはならない。
 沢山の中で最も護りたい少女は恐らく庇護される事を厭う。だからこそ対等に扱いながらもルキアの力が及ばない時には迷わず恋次が力を貸してきた。
 それで良いのだと思う。主従関係では無く背中合わせな関係が自分達には適しているのだと。
 だがもし本当に仲間を護れなくなったら。恐れは常に恋次の中にあった。
 力が欲しい。この底辺に近い戌吊の暮らしの中で初めての仲間を手にいれた瞬間からの願いだ。
 少しでも強くなって、例え立ち向かう相手が遙かなる月であっても胸を張って戦えるような男になりたい。
 後頭部に向かって飛んで来た石を軽々と避けて決意を新たにした恋次は一言文句を言うべく走り去ったルキアを追って全速力で駆け出した。

サイトに恋ルキを展示するのは初ですね。
子供時代は可愛いです。