桜の紡ぐ春の調べ






 ひらり、ふわり、ひらり。
 実際には音を立てずに桜は舞い落ちるのだが、地に落ちるまでの短い、だが、優美な舞はそんな音で表すのが適しているように感じられた。白い花びらが薄く靄の掛かった空色に溶け込んで優しい彩りを奏でる、美しい光景。
 何も言わずに既に数十分、桜の舞に見入っている緋真の傍に白哉は歩み寄り、その肩に身体が冷えぬようにと羽織をそっと掛けた。
「緋真」
 低く名を呼ぶ彼の表情は一見いつもと変わらない無表情であったが、病気に掛かりやすい妻を気遣い心配している事を近しい者なら直ぐに分かったであろう。現に緋真もその表情に気付いていたのだが、敢えてそれには触れずに再び夫の顔から桜の花びらへと視線を移す。
「桜の季節が終わりますね」
「……そうだな」
 掛けられた羽織をそっと掴んで身体を包み込むようにその中に包まると、普段彼が身に纏う香が鼻腔を擽った。愛しげに布の表面を撫でた白い指を男の手が捕らえ、そうして手の中にそっと包み込む。温もりの中に包まれて、初めて自分の手が冷え切っていた事に気付いたのか、大きな瞳が零れそうな程に開かれた。
「緋真」
「分かっております。…直ぐに屋敷に戻りますから、もう少しだけ」
 大人しそうな顔をしていながら自分を通す強さを持ち合わせた娘だということを、白哉は幾度と無く見せつけられていた。自分の言う事を全て聞く召使い達や貴族の着飾った娘達とは違うということを。最初はそれが彼を戸惑わせたものだった。
 白い桜の花びらを見ながらきっと緋真はルキアを想っているのだろうと白哉は考える。まだ見ぬ彼女の妹もまた姉のような性格をしているのだろうか。長女が穏やかな性質だと次女はお転婆になりがちだと言った誰かの言葉を思い出す。共に居た時間は短くとも、きっと緋真に良く似ているのだろう。
 そこまで考えた所で不意に肩口に重みを感じ、白哉は思考を途切れさせる。寄り添うように身体を近付けた女の肩を抱き寄せると傍らで花のような笑みが開いた。
「緋真は桜が好きです。白哉様を思い出しますから」
「私を思い出したくて桜を見ているのなら部屋に戻れ。仕事は終わったから気が済むまで共に居る」
 ありがとうございます。そう言って嬉しそうに微笑み、今度こそ夫に従って歩き始めた彼女の瞳が花びらの一片を映し、そして淋しげな色を浮かべて伏せられた。











「ルキア、綺麗でしょう。桜よ」
 戌吊の外れに位置する丘に桜の木が一本だけあった。その木の下に赤ん坊を抱いて座る少女が一人。キャッキャッと笑う小さな妹と優しい姉の声が青空に響いていた。
「こら、食べてはダメよ。それはお花なの」
 舞い降りた花びらが偶然小さな手に握られ、赤ん坊が良く取る行動ではあるのだが、何も考えずに口元に運ぶ仕草を取った妹を慌てて緋真は止める。そしてクスクスと笑い出した。
 未来の見えない生活の中で笑ったのは久々だと樹に凭れ掛かった彼女は思った。穏やかな時の流れが心地良い。やはり不安なのか泣いてばかりいたルキアも優しい空気を感じているのか今日は機嫌が良かった。
「貴女が大きくなったら…また一緒に桜を見たいな」
 自分の同じ菫色の瞳に優しく語り掛けると、妹はあーなのかうーなのか良く分からない音を発する。その幼い仕草が愛しく、もう一度しっかりと抱き締めて美しい桜を見上げる。そうして舞い降りて来た桜の花びらを手で優しく握り締め、不意に吹き付けた風の一陣にそれを託した。










 透き通るような碧い空が広がる日だった。薄紅の桜の花弁が風と踊り、その一片を立ち止まっていた少女は手の中に捕らえた。もうそれをそのまま口に運ぶような年齢ではない。柔らかな表面を指先でなぞり微笑んだ彼女の表情は、ひどく今は亡き女性に似ていた。
「ルキア、んなとこで道草してると置いてくぞ?」
「全く、貴様は桜を楽しむ余裕を持ち合わせておらぬのか」
 先に進む目立つ赤髪の男の急かす声に彼女は何処か不服そうに眉を寄せながらも相手の元へと駆け寄った。その手に大事そうに置かれた花びらを見て、恋次はニヤリと笑ってみせる。
「それ、食うんじゃねぇぞ?」
「わ、私を幾つだと思っておるのだ! そのような事はせぬ!」
 久々に二人揃って取れた休日だった。義妹に対しては過度な程に過保護な隊長の下で働く恋次の非番はことごとくルキアの非番とずらされており、なかなかこうしてゆっくりと時間を過ごす事は叶わなかったのだ。しかし、結局の所会えるまでの空白の時間の長さが二人の間の絆を深めてしまったのだから、皮肉な話である。
 ともかく、漸く手に入れた幸せな一時を過ごす場として二人が選んだのは、故郷戌吊であった。大切なものを沢山失った。けれども、失ったものよりも多くのものを手に入れた掛け替えのない故郷である事には変わりがなかった。
「此処の桜はいつ見ても変わらぬ……」
 深い森を抜けて開けた丘の上に凛と佇む桜の木を見て小さくルキアが呟いた。
 何処か懐かしい、美しい花をただ黙って見つめているうちにポンと背を軽く叩かれて彼女は顔を上げる。
「何呆けた面してんだよ。ほら、さっさと行って弁当食おうぜ!」
「…花より団子か。まぁ貴様に花は似合わぬ!」
 なんだと、と声を荒げた恋次を残してルキアは桜に向って走り出す。
 優しく頬を撫でた風は桜の香りを含み、微笑みを湛えているような気がした。



一本の桜の樹が時の流れを見ていました。