夜の幻夢

 窓の外は既に夜の世界が広がっている。
 今夜は月も星も見る事が出来ない。暗い夜。
 狭いソファーに身を横たえ、柔らかなクッションに顔を埋める少女が1人、あてがわれた小さな部屋に居た。
 かつて凪と呼ばれた少女は、今はクローム髑髏という名を与えられ、別の生を歩んでいた。失した筈の内臓は幻夢で紡がれ、その事実が現在彼女を生かしている。
 夜は好きではなかった。
 月明かりも星の瞬きもないこんな夜は、特に。
 お前は独りだ。
 誰もお前を必要とする人間など居ない。
 暗闇がそう語り掛けてくるような錯覚に陥り、少女は未だ体温を移さず冷たいソファーから落ちないよう寝返りを打ち小さく吐息を零す。
 風邪を引いたら迷惑だから、と共に行動する少年に渡された毛布が、身を暖めるのに心地良かった。
『…眠れませんか、クローム?』
 ふと。
 少女の頭の中に声が響く。
「…骸…様…?」
 クロームは何か緊急事項でもあったのかと慌てて身体を起こすが、まるでそんな彼女の姿が見えているかのように頭の中の声は笑い声を零す。
『クフフ、残念ですが…急用ではありません。君の不安が遠く離れた僕にまで伝わって来たので、たまにはお喋りもどうかと思っただけです。…楽にしていて良いですよ。流石に僕からは君の姿は見えない』
 姿が見えない相手と会話する事は難しいだろうが、既に慣れているのか、少女は再び毛布の中に身を丸める。
『…暖かくしていますか?』
「…犬が、さっき毛布をくれたから…」
『良かった。…犬も千種もあの性格だから、お前を邪険に扱っているんじゃないかと心配していたんです』
「…それなりに、扱ってくれています」
 嘘を言う事は出来ず、正直な所を口に出すと微かに笑い声が聞こえた。彼の笑い方は特徴的だ。だが、慣れてしまうと少女の耳にはそれが心地良かった。
「…骸様」
『何ですか、クローム?』
 誰も居ない虚空へと呼び掛けると耳へと優しい声音が囁き返す。呼び掛けると返事が返る。その当たり前の事が嬉しく、ふわりと口元を綻ばせ微笑を浮かべた少女はそのままそっと瞼を落とす。
 いつの間にか先程までの暗闇への恐怖は和らいでいた。
「…夜は、もう怖くはないんです」
 貴方が、居る事を、私は知っているから。言葉には出さず、いつか幻夢で出会った彼の姿を思い出す。彼女の囁きにそうですか、と意識を汲み取ったかのように男は呟く。
『…可愛いクローム、そろそろお休みなさい。お前が良い夢を見られるように』
「…はい、骸様。…おやすみなさい」
 ほんの少しの会話で軽くなった心に、睡魔の訪れは早く。安らかな寝息を立て始める少女の気配を感じ取り、彼もまた意識をそっと閉ざした。



=番外編=
『…暖かくしていますか?』
「…犬が、さっき毛布をくれたから…」
『腹巻きは?』
「………はい?」
『レディはお腹を冷やしてはいけませんよ、クローム。女性は冷え症になりやすいのですから。腹巻きを買って来なさい』
「あの…」
『僕の言う事が聞けないのですか?かわいいクローム…僕は悲しい』
「…骸…様…」
 大切な人を悲しませている。それが腹巻きが原因であれ、クロームはその事実が辛かった。
『しかし、お前が嫌だというのなら致し方ない。…諦めましょう』
「か…買います」
 その途端、意識の向こうで男が安堵の溜息を零した。
『それでこそ、クロームです。腹巻きは暖かい。日本の素晴らしい文化の一つを体感して下さい』
「は、はい…」

冷え性には腹巻きでしょう!と友人に突っ込まれました…。