《泡沫に揺れるは》

 優しい、光が見えた。
 儚げで、それでいて暖かな。
 ほんの少し逡巡して、女はそっと手を伸ばす。
 触れるのを躊躇う彼女の心とは裏腹に、光はふわりと彷徨い、そして彼女の指先に触れた。
 女の口元が和らぐ。
 優しく光を抱き締めると、ほんの少し身体が温かくなった気がした――…。





「クロエ…!」
 女の瞼が微かに震えた事に気付き、思わず男は声を張り上げ妻の名を叫んだ。
 既に窓の外には夜の世界が広がっていた。暖炉では煌々と焔が焚かれ、室内は橙色に染められている。部屋の片隅のベッドに力無く横たわる女と、彼女を心配そうに見つめる男と、そして彼の腕に抱かれた安らかに眠る生まれたばかりの赤子と。
 幸せな筈の誕生はしかし、共に訪れた死の足音により手放しには喜べる状況ではないのだ。
「………ん、…」
 女の瞼が持ち上げられ、深い海を凍らせたような瞳が微かに揺れる。出産という大きな仕事を成し遂げた彼女の身体は憔悴しきっていた。
「クロエ、ほら、元気な女の子だ!…お前と俺の…子供だ。無事に産まれたんだ!」
 今にも再び死の眠りへ引きずり込まれそうな彼女を何とか引き留めようという必死な思いが伝わったのか。光が戻った青玉の瞳が小さな我が子へと注がれる。母親の眼差しが注がれすやすやと眠り続ける赤子が、そっと彼女の胸へと抱き渡された。
「…ねぇ、あなた」
 胸に抱いた確かな温もりに命を感じさせられ、込み上げる思いが涙になって溢れた。
「私、…今幸せ。この子を産めて。この子に出会えて。…エトワール…可愛い子」
 とても幸せな人生とはいえなかった。幼い頃から貧しく、生きる為に働いてきた。楽しみ方など知らない。愛する人と結婚し、漸く手に入れたかのように思えた幸せも、あまりに儚く。
『自分の命を選ぶか…お腹の子供を生かすか』
 医師に言い渡された2つの選択。迷わず選んだ子供の命が今此処に存在している。後悔など欠片も抱いていなかった。
「そうだ。…エトワールと…クロエ、お前と俺と…これからは3人で生きていこう。やっと…手に入れたんだ。幸せを」
「…見守っているから」
 思いも寄らぬ強い力で指を握り返す娘の背を優しく撫でながら母は静かな言葉で囁いた。
 死の足音が、その耳に届いていたのだろうか。愛しい娘と夫をその瞳にもう一度焼き付け、
「…ずっと、傍に…愛しているわ…」
 その瞼がゆっくりと、落とされた。最期の吐息が零れ落ち、まるで糸が切れたかのようにくたりと力が抜ける。
「…――クロエ!!」
 男の叫びは――もう彼女には届かない。赤子の泣き声が夜空を哀しく切った――…。






『死は貴女にとってどのようなものなのかしら?』
 絹糸のような金の髪が目を引く紫水晶の瞳の少女が1人、女の前へと進み出た。
「愛しい者との別れ…私はまだ望んでいなかった。あの子と彼を遺して逝くことを」
 自分の遺体に取り縋って嘆く男の肩にそっと腕を回し、彼女は辛そうに目を細める。…勿論既に死した彼女には触れる事は出来ない。近くて遠い。
『死は月の揺り籠』
『そして…生は太陽は風車』
 菫の瞳の少女の傍らに不意に紫陽花の瞳の少女が姿を現す。
『幾度も巡るの』
『何度も何度も…終わり無き旅路』
『もし貴女が望むなら与えてあげる』
 女の手を握った少女の手は驚く程冷たく、だがその手を拒むには彼女は生に執着し過ぎていた。
「まだ…生きたい。エトワールの傍に居たい」






「おとーさん…この子は?」
「お前の目になってくれる、優しい犬だよ」
「そっか。…はじめまして、プルー!私はエトワール」
 そして、物語は再び紡がれる――…。

初SH小説です。
漫画が発売される前でしたね!