Sound Horizon“Moira”より。




「………エレフ」
 此処には居ない片割れを思い、その名をそっと言の葉に乗せる。
 何処に居るの?
 何を見ているの?
 まだ私を覚えてる?
 伝えられない幾つもの問いが胸を反芻するが、答えてくれる相手を見付けられないままに消えていく。幾度問い掛けたか分からないその問いをもう一度言葉に出さずに繰り返し、少女は顔を上げ夜空の星を見上げた。まるで凍らせた藍に銀砂を散りばめたかのような美しい光景。
 これが最期に見る景色なら、なんて幸せなのかしら。きっとエレフも何処かで同じ星を見ているから。これから迫る死さえも怖くなんてない。私の為に誰かを失うくらいなら、私が消える事を選ぶ。そういう花になりたいと、優しい先生に救われた時から思っていたから。
 不意に、少女の瞳と同じ色の肩掛けが風に煽られて舞った。その風に託すように布を押さえていた手を離す。夜空を舞うかのように思われたその布は、重力に逆らえずに地に落ちた。
 まるで私。運命《Moira》に与えられた運命《定め》に逆らえず、運命《彼女》を受け入れ、運命《神》に屠られる小さな存在。きっと女神は私を嘲笑うのでしょう。地に在って、ただ彼女に流されるままである私を。でも、抗う事なんて出来ない。私にはそんな強さはないから。
 それまで静寂の中にあった湖に兵士達の足音が近付き始めた。全く動じた様子も無く少女はゆっくりと振り返り彼らをその瞳に映す。透き通った銀の髪に月の光を帯びた少女は神聖な空気すら纏っていた。真白なローブを身に纏い、それ以外は何も持たぬ彼女を武装した兵士達が取り囲む。そのような状況に在っても尚、その瞳は揺らがなかった。瞳はただ見つめ続ける。やって来る紅の髪の男を。
 あの人が私を殺す人。私の命を終わらせる人。冥府はどんな所かしら。寒いの? 暗いの? 私独りなのかしら? でもきっと怖くない。いつか…出来ればずっと時間が流れてからが良いけれど、やって来たエレフを私が出迎える日を待ち望んでいるから。先に行くだけ。だからこれはお別れじゃないの。
 男は何も言わずに剣を引き抜いた。彼の傍らにやって来た神官が、聖水をその刃に掛け祈りを捧げる。これが儀式であることを証明する為に。決して、漸く探し出した皇位継承者の生き残りを消す為の、私欲に塗れた行為ではないと証明する為に。
 ずっと一緒に居ようね。そう約束した私達の祈りは本当に儚かった。あんなに早く優しい日々が終わるとは思わなかった。ずっと、ずっと一緒に居られると信じていたのに。あの日が来るまでは。あの――…
「貴方は…!」
 不意に蘇った記憶に少女は目を見開く。あの日。いつものように山を駆け回り、見つけた綺麗な石を両親に見せようと二人で競うように帰宅した。扉を開いた双子の視界に映ったのは優しい父と美しい母が待つ暖かな部屋ではなく。憎しみの目で父親と対峙していた男は、幸せを奪ったあの男は、今彼女の目の前にいる男ではないか。驚きと悲しみと憎しみを混ぜ合わせた瞳に動じる事無く、男は静かに嗤った。
 嗚呼、何て運命《神》は残酷なのでしょうか。
 言うべき言葉を見付けられなくなり、少女は何も言わずにただ何も語らぬ夜空を見上げた。



「……さよなら、エレフ」



 ただ、いつか。また巡り合えることを信じて。
 目を閉じた少女の眦から、涙が一筋零れ落ちた。





さよならを、貴方に